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(Updated: Jan.11,2010)

多発性硬化症の今と昔
〜時代を超えて多発性硬化症を考える〜


新潟大学脳研究所神経内科
河内 泉

 もし新潟大学脳研究所神経内科初代教授の椿忠雄先生や九州大学神経内科初代教授の黒岩義五郎先生が時代を超えて現代にタイムトラベルしたら、 どのような感想をお持ちになるでしょうか。 多発性硬化症、 認知症、 脳梗塞診療の様変わりぶりに驚かれるでしょうか。 それとも……。


 結核が国民病と言われた昭和初期の時代と比較して、 医学の進歩、 社会の変化、 衛生状況の改善、 食生活の変化、 環境汚染物質の増加をはじめとした様々な原因で、 結核などの感染症は減少傾向に転じ、 逆に動脈硬化による心・脳血管疾患、 悪性新生物、 アレルギー性疾患やある種の自己免疫疾患 (多発性硬化症、 サルコイドーシス、 クローン病など) が増加しています。 特に、 多発性硬化症は「東大第三内科に入局した昭和20年の頃には日本にいないというのが通説だった」という椿先生の回想録からも、 昭和時代と比べ、 平成の日本がいかに変貌を遂げ、 多発性硬化症が増加しているのか理解できます。 日本には諸外国に比較して広く高精度のMRI装置が設置されていますので、 偶然に発見されるケース、 発症早期に発見されるケースも多いことが予想されますが、 一方、 環境要因、 特に衛生状況の変化こそが多発性硬化症が増加した重要な鍵を握るのではないかという「衛生仮説」が提唱され、 注目されています。 私はこの衛生仮説から多発性硬化症の病態を読み解こうと研究しています。 衛生仮説はまだ完全には実証されていませんが、 様々な傍証がそろいつつあります。
 
 多発性硬化症は若く働き盛りの世代に多いことが特徴の病気です。 小さい子どもさんがいる患者さんもいらっしゃるでしょう。 またこれから結婚・出産を考えている患者さんもいらっしゃるでしょう。 これから海外赴任などを計画している患者さんもいるでしょう。 視神経炎や脊髄炎などの神経症状の再発の他に、 再発とは関係なく、 うつ、 疲労、 集中力の低下などにより、 周囲は気付かないけれども、 本人は「健康なときとなんだか違う」という違和感を感じ続けていることもあります。 結果、 仕事に集中できない、 日常生活を生き生きと送れないなど、 社会活動と生活の質が低下している場合もあります。 再発予防に関してはインターフェロンベータ製剤の他に、 この数年、 爆発的に様々な製剤が開発され、 欧米を中心に、 一部、 日本でも治験という形で新しく開発された様々な薬の有効性を確認する試験が行われています。 また、最近では、運動機能の後遺症状についても欧米で新たな薬剤が開発されています。 うつ、 疲労、 集中力の低下などにも積極的に対応しなければならない、 もっと患者さんの日常生活の訴えにも対応しなければならないという気運が高まっています。
 
 このように病態および治療の進歩など大きく変貌を遂げている「多発性硬化症」に対応するために、 患者さんにたくさんの質の良い情報を持っていただくために、 私が患者さんにお手伝いできることは何なのか、 満足していただける医療を行うにはどうすべきなのか、 新潟にお住まいの患者さんに世界最先端の医療を受けてもらうにはどうしたらいいのか、 いつも考えていますが、 なかなか成果に結びつかずに、 右往左往しています。 そんな時、 治療法のなかった時代に患者さんを診察していらっしゃった椿先生、 黒岩先生の「時代を超えた」アドバイスを聞きたいと強く感じます。 不思議なもので、 医療技術の発展しているであろう未来から発信された「時代を超えた」意見を聞きたいとは感じません。
 
 「患者は医師のためにあるのではない。 医師は患者のためにあるのである」「医師は患者に治療してやるという考えを捨て、 患者に教えて貰うのだという心構えを忘れずに」「Pat. (患者) を傷つけなかったか。 Pat. に希望を与えることを怠ったか。 人間的なcommunicationを軽視したか。 Pat. の要望に添えなくはなかったか (回診の折のメモから)」
 
 これらは椿先生のお言葉です。 私は椿先生にお会いしたことはありませんが、 神経学の伝統が深い新潟の地で神経内科を学び、 診療しておりますと、 椿先生のお言葉を目にする機会、 思い出話を聞く機会、 当時の検討会の記録やカルテを目にする機会、 椿先生門弟の同窓会の諸先生を通じて椿先生の神経内科学を学ぶ機会をたくさん持ちます。 また現教授の西澤正豊先生からは神経内科の神髄だけではなく、 昭和時代に起きた歴史上の負の事案を真摯に修正する誠意とたくさんの努力もまた教えていただいております。 忘れえぬたくさんの大先輩方から時代を超えてお叱りの言葉をいただかぬように、 大先輩の言葉を胸にたずさえながら、 私ができることを新潟で一歩一歩、 患者さんとともに歩んでいきたいと考えています。


 時代とともに多発性硬化症は変貌しました。 しかし多発性硬化症の患者さんを診る「神経内科医の心」は変わってはいけないと感じています。
 

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Created: Aug.22,2009